その25 石川啄木 ローマ字日記 Part25(完)
十四日 金曜日 雨。 佐藤衣川に起された。五人の家族をもって職を探している。 佐藤が帰って清水が来た。日本橋のある酒屋の得意廻りに口があるという。 岩本を呼んで履歴書を書いてくるように言ってやった。 いやな天気だが、何となく心が落ち着いてきた。社を休んでいる苦痛も馴れ てしまってさほどでもない。その代り頭が散漫になって何も書けなかった。何 だかいやに平気になってしまった。 二度ばかり口の中から夥しく血が出た、女中はノボセのせいだろと言った。 夜は「字音仮名遣便覧」を写した。 渋民村を書こうと思ったが、どう ...
その24 石川啄木 ローマ字日記 Part24
六日 木曜日 今日も休む。昨日今日せっかくの靖国神社の祭典を日もすがらの雨。 朝、岩本、清水の二人に起された。何となく沈んだ顔をしている。 「このままではどうもならない! どうかしなければならぬ!」と予は考えた。 「そうだ! あと一週間ぐらい社は休むことにして、大いに書こう。それにはここ ではいけない。岩本の宿のあき間に行って、朝っから晩まで書こう。夜に帰って 来て寝よう。」 そして金が出来たら三人でとりあえず、自炊しようと考えた。金田一君にも話 して同意を得た。 原稿紙とインクを持って早速弓町へ行った。 ...
その23 石川啄木 ローマ字日記 Part23
二日 日曜日 お竹が来て起した。「あのね、石川さん、旦那が今お出かけになるところで、 どうでしょうか、聞いて来いって!」 「あーあ、そうだ。昨夜はあんまり遅かったから、そのまま寝た、」と言いながら、 予は眠い眼をこすりながら財布を出して二十円だけやった。「後はまた十日 ごろまでに、」「そうですか!」とお竹は冷やかな、しかし賢こそうな眼をして 言った。「そんなら貴方そのことをご自分で帳場におっしゃって下さいません か? 私どもはただもう叱られてばかりいますから、」 予はそのまま寝返りを打ってしまった。 「あ ...
その22 石川啄木 ローマ字日記 Part22
五月一日 土曜日 昨日は一日、ヌカのような雨が降っていたが、今日はきれいに晴れて、 久しぶりに富士を眺めた。北の風で少し寒い。 午前は「ルーヂン、浮草」を読んで暮した。ああ! ルーヂン! ルーヂン の性格について、考えることは、即ち予自身がこの世に何も起し得ぬ男 であるということを証明することである。 社に行くと佐藤さんは休み。加藤校正長は何だかむくんだような顔をして いた。わざと昨日休んだ言い訳を言わずに、予も黙っていてやった。 前借は首尾よく行って二十五円借りた。今月はこれでもう取る所がない。 先月の ...
その21 石川啄木 ローマ字日記 Part21
二十七日 火曜日 ハッと驚いて眼をさますと枕元におきよが立っていた。泣きたい位眠いのを 我慢してハネ起きた。曇った日。 昨夜のことがつまびらかに思い出された。予がおえんという女と寝たのも 事実だ。その時何の愉快をも感じなかったのも事実だ。再び予があの部屋に 入って行った時、たまちゃんの頬に微かに紅を潮ちょうしていたのも事実だ。 そして金田一君が帰りの道すがら、ついにあの女と寝ず、ただ生まれて初めて 女とキッスしただけだと言ったのも事実だ。その道すがら、予は非常に酔った ようなふりをして、襲い来る恐ろしい悲 ...
その20 石川啄木 ローマ字日記 Part20
二十六日 月曜日 眼を覚ますと火鉢の火が消えていた。頭の中がジメジメ湿っているような 心持ちだった。 何とかして明るい気分になりたいというようなことを考えているところへ 並木君のハガキが着いた。 それを見ると予の頭はすっかり暗く、冷たく、湿り返ってしまった。借りて質 に入れてある時計を今月中に返してくれまいかというハガキだ。 ああ! 今朝ほど予の心に死という問題が直接に迫ったことがなかった。 今日社に行こうか行くまいか・・・いや、いや、それよりも先ず死のうか死ぬ まいか? ・・・そうだ、この部屋ではいけな ...
その19 石川啄木 ローマ字日記 Part19
二十五日 日曜日 予の現在の興味は唯一つある。それは社に行って二時間も三時間も 息もつかずに校正することだ。手が空くと頭が何となく空虚を感ずる。 時間が長くのみ思える。はじめ予の心を踊り立たした輪転機の響きも、 今では馴れてしまって強くは耳に響かない。今朝これを考えて悲しくなった。 予はすべてのものに興味を失っていきつつあるのではあるまいか? すべてに興味を失うということは、即ちすべてから失われるということだ。 "I have had lost from everything!" こういう時期がもし予に来 ...
その18 石川啄木 ローマ字日記 Part18
二十四日 土曜日 晴れた日ではあったが、北風は吹いて寒暖計は六十二度八分しか 昇らなかった。 「スバル」の募集の歌「秋」六百九十八首中から、午前のうちに四十首 だけ選んだ。社に行く時それと昨夜の「莫復問七十首」とを平出君の ところに置いて行った。 今日の記事の中に練習艦隊太平洋横断の通信があった。その中に 春季皇霊祭の朝、艦員皆甲板に出て西の空を望んで皇霊を拝したと いうことがあった。耳の聞えない老小説家の三島じいさん、「西の空で は日本の方角ではない」と言って頑としてきかなかった。それから前川 じいさん ...
その17 石川啄木 ローマ字日記 Part17
二十二日 木曜日 昨夜早く寝たので、今日は六時頃に起きた。そして歌を作った。晴れた日 が午後になって曇った。 夜、金田一君と語り、歌を作り、十時頃また金田一君の部屋へ行って、作 った歌を読んで大笑い、さんざんふざけ散らして、大騒ぎをし、帰って来て寝た。 二十三日 金曜日 六時半頃に起きて洗面所に行くと、金田一君が便所で挨拶されたという 十九番の部屋の美人が今しも顔を洗って出てゆくところ。遅かった由良之助! その女の使った金だらいで顔を洗って、「何だ、バカなことをしやがるな!」と心の中。 歌を作る。予が自由 ...
その16 石川啄木 ローマ字日記 Part16
二十日 火曜日 廊下でおつねが何か話している。その相手の声は予の未だ聞いたことの ない声だ。細い初々しい声だ。また新しい女中が来たなと思った・・・それは 七時頃のこと・・・この日第一に予の意識にのぼった出来事はこれだ。 うつらうつらとしていると、誰かしら入って来た。「きっと新しい女中だ。」・・・ そう夢のように思って、二三度ゆるやかな呼吸をしてから眼を少しばかり開い てみた。 思ったとおり、十七ぐらいの丸顔の女が、火鉢に火を移している。「おさださん に似た、」とすぐ眼をつぶりながら、思った。おさださんとい ...
その15 石川啄木 ローマ字日記 Part15
十九日 月曜日 下宿の虐待は至れり尽せりである。今朝は九時頃起きた。顔を洗って きても火鉢に火もない。一人で床を上げた。マッチで煙草をのんでいると、 子供が廊下を行く。言いつけて、火と湯をもらう。二十分も経ってから飯を 持ってきた。シャモジがない。ベルを押した。来ない。また押した。来ない。 よほど経ってからおつねがそれを持ってきて、もの言わずに投げるように 置いて行った。味噌汁は冷たくなっている。 窓の下にコブの木の花が咲いている。昔々、まだ渋民の寺にいたころ、 よくあの木の枝を切ってはパイプをこしらえた ...
その14 石川啄木 ローマ字日記 Part14
十八日 日曜日 早く眼は覚ましたが、起きたくない。戸が閉まっているので部屋の 中は薄暗い。十一時までも床の中にモゾクサしていたが、社に行こ うか、行くまいかという、たった一つの問題をもてあました。行こうか ? 行きたくない。行くまいか? いや、いや、それでは悪い。何とも 結末のつかぬうちに女中がもう隣の部屋まで掃除してきたので起き た。顔を洗ってくると、床を上げて出て行くおつねの奴。 「掃除はお昼過ぎにしてやるから、ね、いいでしょう?」 「ああ。」と予は気抜けしたような声で答えた。 「・・・してやる? フ ...
その13 石川啄木 ローマ字日記 Part13
十六日 金曜日 何という馬鹿なことだろう! 予は昨夜、貸本屋から 借りた徳川時代の好色本「花の朧夜」を三時頃まで 帳面に写した・・・ああ、予は! 予はその激しき楽しみ を求むる心を制しかねた! 今朝は異様なる心の疲れを抱いて十時半頃に眼を さました。そして宮崎君の手紙を読んだ。ああ! みんなが死んでくれるか、予が死ぬか。二つに一つだ! 実際予はそう思った。そして返事を書いた。予の生活の 基礎は出来た、ただ下宿をひき払う金と、家を持つ金と、 それから家族を呼び寄せる旅費! それだけあればよい! こう書いた。 ...
その12 石川啄木 ローマ字日記 Part12
十四日 水曜日 晴。佐藤さんに病気届をやって、今日と明日休むことにした。 昨夜金田一君から、こないだの二円返してくれたので、今日は 煙草に困らなかった。そして書き始めた。題は、「ホウ」あとで 「木馬」と改めた。 創作の興と性欲とはよほど近いように思われる。貸本屋が 来て妙な本を見せられると、なんだか読んでみたくなった。 そして借りてしまった。一つは「花の朧夜)。」一つは「情)の虎の 巻。」「朧夜」の方をローマ字で帳面に写して、三時間ばかり 費やした。 夜は金田一君の部屋に中島君と、噂に聞いていた小詩人君 ...
その11 石川啄木 ローマ字日記 Part11
十三日 火曜日 朝早くちょっと眼を覚ました時、女中が方々の雨戸をくっている 音を聞いた。そのほかには何も聞かなかった。そしてそのまま また眠ってしまって、不覚の春の眠りを十一時近くまでも貪った。 花曇りしたのどかな日。満都の花はそろそろ散り始めるであろう。 おつねが来て、窓ガラスをきれいに拭いてくれた。 老いたる母から悲しき手紙がきた。 「このあいだみやざきさまにおくられしおてがみでは、なんとも よろこびおり、こんにちかこんにちかとまちおり、はやしがつに なりました。いままでおよばないもりやまかないいたし ...
その10 石川啄木 ローマ字日記 Part10
十二日 月曜日 今日も昨日に劣らぬうららかな一日であった。風なき空に花は 三日の命を楽しんでまだ散らぬ。窓の下の桜は花の上に色浅き 若芽をふいている。コブの木の葉は大分大きくなった。 坂を下りて田町に出ると、右側に一軒の下駄屋がある。その前 を通ると、ふと、楽しい、賑やかな声が、なつかしい記憶の中から のように予の耳に入った。予の眼には広々とした青草の野原が浮 かんだ。・・・下駄屋の軒の籠の中で雲雀が鳴いていたのだ。一分 か二分の間、予はかの故郷の小出野)と、そこへよく銃猟に一緒に 行った、死んだ従兄弟の ...
その9 石川啄木 ローマ字日記 Part9
十一日 日曜日 八時頃眼を覚ました。桜という桜が蕾一つ残さず咲きそろって、 散るには早き日曜日。空はのどかに晴れ渡って、暖かな日だ。 二百万の東京人がすべてを忘れて遊び暮らす花見は今日だ。 何となく気が軽くさわやかで、若き日の元気と楽しみが身体中 に溢れているようだ。昨夜の気持ちはどこへ行ったのかと思われた。 金田一君は花婿のようにソワソワしてセッセと洋服を着ていた。 二人は連れだって九時頃外へ出た。 田原町で電車を捨てて浅草公園を歩いた。朝ながらに人出が 多い。予はたわむれに一銭を投じて占いの紙を ...
その8 石川啄木 ローマ字日記 Part8
(十日の続き) すでに人のいない所へ行くことも出来ず、さればといって、何一つ 満足を得ることもできぬ。人生そのものの苦痛に耐え得ず、人生そ のものをどうすることもできぬ。すべてが束縛だ、そして重い責任が ある。どうすればよいのだ? ハムレットは、「To be,or,not to be?」 と言った。しかし今の世では、死という問題はハムレットの時代より ももっと複雑になった。ああ、イリア! "Three of them"の中のイリア! イリアの企ては人間の企て得る最大の企てであった! 彼は人生 から脱出せん ...
その7 石川啄木 ローマ字日記 Part7
(十日の続き) 哲学としての自然主義は、その時「消極的」の本丸を捨てて、 「積極的」の広い野原へ突貫した。彼――「強きもの」は、あら ゆる束縛と因襲の古い鎧を脱ぎ捨てて、赤裸々で、人の力を 借りることなく、勇敢に戦わねばならなかった。鉄のごとき心を 以て、泣かず、笑わず、何の顧慮するところなく、ただましぐら に、己の欲するところに進まねばならなかった。人間の美徳と いわれるあらゆるものを塵のごとく捨てて、そして、人間のなし 得ない事を平気でなさねばならなかった、何のために? それ は彼にも分らない。否、 ...
その6 石川啄木 ローマ字日記 Part6
(十日の続き) 近頃、予の心の最ものんきなのは、社の往復の電車の中ばかりだ。 家にいると、ただ、もう、何のことはなく、何かしなければならぬよう な気がする。 「何か」とは困ったものだ。読むことか? 書くことか? どちらでも ないらしい。否、読むことも書くことも、その「何か」のうちの一部分 にしか過ぎぬようだ。読む、書く、というほかに、何の私のすること があるか? それは分からぬ。が、とにかく何かをしなければなら ぬような気がして、どんなのんきなことを考えている時でも、しょっ ちゅう後ろから「何か」に追っか ...
その5 石川啄木 ローマ字日記 Part5
十日 土曜日 昨夜は三時過ぎまで床の中で読書したので、今日は十時過ぎに起きた。晴れた空を南風が吹きまわっている。 近頃の短篇小説が一種の新しい写生文に過ぎぬようなものとなってしまったのは、否、我々が読んでもそうとしか思わなくなってきた・・・つまり不満足に思うのは、人生観としての自然主義哲学の権威がだんだん無くなってきたことを示すものだ。 時代の推し移りだ!自然主義は初め我らの最も熱心に求めた哲学であったことは争われない。が、いつしか我らはその理論上の矛盾を見出した。そしてその矛盾を突っ越して我らの進んだ時 ...
その3 石川啄木 ローマ字日記 Part4
九日 金曜日 桜は九分の咲き。暖かな、おだやかな全く春らしい日で、空は遠く花曇りにかすんだ。おととい来た時は何とも思わなかった智恵子さんのハガキを見ていると、なぜかたまらないほど恋しくなってきた。「人の妻にならぬ前に、たった一度でいいから会いたい!」そう思った。 智恵子さん! なんといい名前だろう! あのしとやかな、そして軽やかな、いかにも若い女らしい歩きぶり! さわやかな声!二人の話をしたのはたった二度だ。一度は大竹校長の家で、予が解職願いを持って行った時。一度は谷地頭やちがしらの、あのエビ色の窓かけの ...
その3 石川啄木 ローマ字日記 Part3
4月8日の続きです。 --- 京都の大学生が10何人、この下宿に来て、7番と8番、すなわち余と 金田一君との間の部屋に泊まったのは、今月の1日の事だ。 女中は皆大騒ぎしてその方のようにばかり気を取られていた。 中にもお清-5人のうちでは一番美人のお清は、ちょうど3回 もちの番だったから、ほとんど朝から晩-夜中までもこの若い、 元気のある学生共の中にばかりいた。みんなは”お清さん、 お清さん”と言って騒いだ。中には随分いかがわしい言葉や、 くすぐるような気配なども聞こえた。余はしかし、女中共の 強度にちらち ...
その2 石川啄木 ローマ字日記 Part2
8日、木曜日 たぶん、隣室の忙しさに紛れて忘れたのであろう、(忘れるというのが既に侮辱だ。 今の余の境遇ではその侮辱が、また、当然なのだ。そう思って余はいかなる事にも笑っている。) 余は考えた。余は今までこんな場合には、いつでも黙って笑っていた、ついぞ怒ったことはない。 しかしこれは、余の性質が寛容なためか?おそらくそうではあるまい。仮面だ、 しからずば、もっと残酷な考えからだ。余は考えた、そして「ティウォテ女中」を読んだ。 空は穏やかに晴れた。花時の巷は何となく浮き立っている。風が時々砂を巻いてそぞろゆ ...
その1 石川啄木
今日からKindle Unlimitedを読み尽くす!をスタートします。 今年から1年365冊を読むことに決めたので、毎日書けるとは思います。 基本的には感想文を書きたいと思うのですが、ローマ字日記はあまりに読みづらいので日本語に書き換えてみようと思っています。 啄木の日記は1909年4月7日~17日の11日間。 11日シリーズで毎日1日分を掲載していきたいと思います。 約110年前の日本、東京を知るいい機会になりそうです。 == 4月7日 本郷区森川町1番地 新坂359号 外塀館別荘にて。 晴れた空に凄 ...