十二日 月曜日
今日も昨日に劣らぬうららかな一日であった。風なき空に花は
三日の命を楽しんでまだ散らぬ。窓の下の桜は花の上に色浅き
若芽をふいている。コブの木の葉は大分大きくなった。
坂を下りて田町に出ると、右側に一軒の下駄屋がある。その前
を通ると、ふと、楽しい、賑やかな声が、なつかしい記憶の中から
のように予の耳に入った。予の眼には広々とした青草の野原が浮
かんだ。・・・下駄屋の軒の籠の中で雲雀が鳴いていたのだ。一分
か二分の間、予はかの故郷の小出野と、そこへよく銃猟に一緒に
行った、死んだ従兄弟のことを思い出して歩いた。
思うに、予はすでに古き・・・然り! 古き仲間から離れて、自分
一人の家を作るべき時機となった。友人というものに二つの種類が
ある。一つは互いの心に何か相求めるところがあっての交わり、
そして一つは互いの趣味なり、意見なり、利益なりによって相近づ
いた交わりだ。第一の友人は、その互いの趣味なり、意見なり、利
益なりあるいは地位なり、職業なりが違っていても、それが直接二
人の間に、真面目に争わねばならぬような場合に立ち至らぬ限り、
決して二人の友情の妨げとはならぬ。その間の交わりは比較的
長く続く。
ところが第二の場合における友人にあっては、それとよほど趣き
を異にしている。無論この場合において成り立ったものも、途中か
ら第一の場合の関係に移って、長く続くこともある。が、大体この種
の関係は、いわば、一種の取引関係である。商業的関係である。
AとBとの間の直接関係でなくて、Aの所有する財産、もしくは、権利
・・・即ち、趣味なり、意見なり、利益なり・・・と、Bの有するそれとの
関係である。店なり、銀行なりの相互の関係は、相互の営業状態
に何の変化も起こらぬ間だけ続く。いったんそのどちらかにある変
化が起きると、取引はそこに断絶せざるを得ない。
まことに当たり前のことだ。
もしそれが第一の関係なら、友人を失うということは、不幸なこと
に違いない。が、もしもそれが第二の場合における関係であった
なら、必ずしも幸福とは言えぬが、また敢えて不幸ではない。その
破綻が受動的に起これば、その人が侮辱を受けたことになり、自
動的に起したとすれば、勝ったことになる。
予がここに「古き仲間」と言ったのは、実は、予の過去において
の最も新しい仲間である。否、あった。予は与謝野氏をば兄とも
父とも、無論、思っていない。あの人はただ予を世話してくれた人
だ。世話した人とされた人との関係は、した方の人がされた方の
人より偉くている間、もしくは互いに別の道を歩いてる場合、もし
くはした方の人がされた方の人より偉くなくなった時だけ続く。同じ
道を歩いていて、そして互いの間に競争のある場合には絶えてし
まう。予は今与謝野氏に対して別に敬意を持っていない。同じく
文学をやりながらも、何となく別の道を歩いているように思っている。
予は与謝野氏とさらに近づく望みを持たぬと共に、敢えてこれと
別れる必要を感じない。時あらば今までの恩を謝したいとも思って
いる。
晶子さんは別だ。予はあの人を姉のように思うことがある・・・この
二人は別だ。
新詩社の関係から得た他の友人の多数は与謝野夫妻とはよほど
趣きを異にしている。平野とはすでに喧嘩した。吉井は鬼面して人
を嚇す放恣な空想化の亜流・・・最も憐れな亜流だ。もし彼らのいわ
ゆる文学と、予の文学と同じものであるなら、予はいつでも予のペン
を棄てるにためらわぬ。その他の人々は言うにも足らぬ
否。こんなことは何の要のないことだ。考えたって何にもならぬ。
予はただ予の欲することをなし、予の欲する所に行き・・・すべて
予自身の要求に従えばそれでよい。
然り。予は予の欲するままに!
That is all! All of all!
そして、人に愛せらるな。人の恵みを受けるな。人と約束するな。
人の許しを乞わねばならぬ事をするな。決して人に自己を語るな。
常に仮面をかぶっておれ。いつ何時でも戦のできるように・・・いつ
何時でもその人の頭を叩き得るようにしておけ。一人の人と友人に
なる時は、その人といつか必ず絶交することあるを忘るるな。
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十一日でも出てましたが、晶子さんは有名な与謝野晶子ですね。
君死にたもうことなかれを読みたくなったので、全文を転載します。
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
堺(さかひ)の街のあきびとの
舊家(きうか)をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。
君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ。
あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守(も)り、
安(やす)しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。
暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にひづま)を、
君わするるや、思へるや、
十月(とつき)も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。
この詩が許されていたのですから、やはり大正前後の日本ってとても
自由だったのでしょうね。これが昭和10年代なら間違いなく投獄される
でしょう。
反戦の詩ですが、反戦以上に弟への愛情を強く感じますよね。
この愛情に近いものを啄木は自分に対しても感じていたのでしょう。
だから姉に見えた。年齢的には8歳違いだったのですね。
啄木が与謝野夫婦にお世話になっていたのはまだ君死にたもうこと
なかれが出る前の事。
当時は旦那さんの与謝野鉄幹の方が有名だったのでしょうね。今は
奥さんが小学校の教科書に載っている、という皮肉。世界って面白い
ものです。啄木も生前も結構メジャーだったけど、死後ますます彼の
名声は高まった。
それにしてもWikiみてびっくりしたのは、晶子さん、12人もお子さん
産んでいたのですね。。。サッカーチームが作れる。。。すごすぎ。
鉄幹ハッスルしすぎだろ。。。w
話を啄木に戻します。ローマ字日記を読んでいて常に思うのですが、
常に彼は「上から目線」。余が最高、他は余が認めたものはよく、それ
以外は全部クソ。徹底してますけど、僕がここにいたら、「君ではなく
その目線がクソ。」と言いますね。
でも、これが23歳の言う事なのかなぁ、昔ってほんと早熟だったんだ
なぁ。。。とつくづく思います。僕の23歳の頃・・・小説は書いていた
けど、こんなレベルにはさらさらなく、しかも毎日大学を卒業できる
か不安で不安で、毎晩成績証明書を意味もなく見つめる日々。
まあ、こんな僕に比べると、啄木は立派だと思いますね。ただなぁ・・・
彼、26年幸せだったのかなぁ。。。死ぬ間際に幸せならそれでいいと
思うのですが、少なくともこの日記を書いていたころは幸せでなかった
のでしょうね。