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その5 石川啄木 ローマ字日記 Part5

十日 土曜日

昨夜は三時過ぎまで床の中で読書したので、今日は十時過ぎに起きた。晴れた空を南風が吹きまわっている。

近頃の短篇小説が一種の新しい写生文に過ぎぬようなものとなってしまったのは、否、我々が読んでもそうとしか思わなくなってきた・・・つまり不満足に思うのは、人生観としての自然主義哲学の権威がだんだん無くなってきたことを示すものだ。

時代の推し移りだ!自然主義は初め我らの最も熱心に求めた哲学であったことは争われない。が、いつしか我らはその理論上の矛盾を見出した。そしてその矛盾を突っ越して我らの進んだ時、我らの手にある剣は自然主義の剣ではなくなっていた。・・・少なくも予一人は、もはや傍観的態度なるものに満足することができなくなってきた。作家の人生に対する態度は、傍観ではいけぬ。作家は批評家でなければならぬ。でなければ、人生の改革者でなければならぬ。また・・・

予の到達した積極的自然主義は即ちまた新理想主義である。理想という言葉を我らは長い間侮辱してきた。実際また嘗て我らの抱いていたような理想は、我らの発見したごとく、哀れな空想に過ぎなかった。「ライフ・イリュージョン」に過ぎなかった。しかし、我らは生きている。また、生きねばならぬ。あらゆるものを破壊しつくして新たに我らの手ずから樹てたこの理想は、もはや哀れな空想ではない。理想そのものはやはり「ライフ・イリュージョン」だとしても、それなしには生きられぬのだ!・・・この深い内部の要求までも捨てるとすれば、予には死ぬよりほかの道がない。

今朝書いておいたことは嘘だ、少なくとも予にとっての第一義ではない。いかなることにしろ、予は、人間の事業というものを偉いものと思わぬ。ほかのことより文学を偉い、尊いと思っていたのはまだ偉いとはどんな事か知らぬ時のことであった。人間のすることで何一つ偉いことがあり得るものか。人間そのものがすでに偉くも尊くもないのだ。

予はただ安心をしたいのだ!・・・こう、今夜初めて気がついた。そうだ、全くそうだ。それに違いない!

ああ! 安心・・・何の不安もないという心持は、どんな味のするものだったろう! 長いこと・・・物心ついて以来、予はそれを忘れてきた。

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おそらく、「啄木なりに好き放題に生きる」が「予の到達した積極的自然主義は即ちまた新理想主義」なんだろうなぁと思います。ただ、人に迷惑をかけてはだめですね。全部自腹でやりなさい、と思う。

一方、人間の事業に偉いものはない、これは賛成です。すべて偉くないか、若しくはすべて尊いとした方がいいと思う。ある程度正しい、正しくないはあれども、少なくとも貴賤はない。だから、僕が金田一君だったら「まず余をやめようね、石川君」って言った気がする。

そして、安心したい、はすごくわかる。去年までの僕は心の安寧がとにかく欲しかった。何をしても満たされないし、不安が頻繁に襲う。「遺伝だから」というのは簡単だけど、そうであれば一生苦しまなければならない。それは嫌だ、でも苦しんでいた。

そして、今年ポジティブ心理学のおかげで一気に不安が消えた。同じ時代に生まれていたら、彼の不安も消せたと思う。啄木の不安の源泉が簡単だから。「ないものねだり」だから。しかもローマ字日記を見れば、彼はないものを欲してもいるし、嫌ってもいる。この不安定な状態では自己制御は不能。破滅的な人生を歩んだのもある意味当然と思える。

ほんと100年前に彼に出会えていたらなぁ・・・と感ぜずにはいられませんでした。

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