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その20 石川啄木 ローマ字日記 Part20

二十六日 月曜日

眼を覚ますと火鉢の火が消えていた。頭の中がジメジメ湿っているような

心持ちだった。
何とかして明るい気分になりたいというようなことを考えているところへ

並木君のハガキが着いた。
それを見ると予の頭はすっかり暗く、冷たく、湿り返ってしまった。借りて質

に入れてある時計を今月中に返してくれまいかというハガキだ。
ああ! 今朝ほど予の心に死という問題が直接に迫ったことがなかった。

今日社に行こうか行くまいか・・・いや、いや、それよりも先ず死のうか死ぬ

まいか? ・・・そうだ、この部屋ではいけない。行こう、どこかへ行こう・・・

朝の湯の湯槽のふちにうなじ載せゆるく息する物思ひかな

湯に行こうという考えが起こった。それは自分ながらこの不愉快な気分に

堪えられなかったのだ。先日行った時のいい気持ちが思い出されたのだ。

とにかく湯に行こう。そしてから考えることにしよう。そして予は台町の湯屋

に行った。その時までは全く死ぬつもりでいたのだ。

湯の中は気持ちがいい。予は、出来るだけ長くそこにいようと思った。ここ

さえ出れば恐ろしい問題が待ち構えていて、すぐにも死ぬか何かせねばなら

ぬようで、温かい湯に浸かっている間だけが自分の身体のような気がした。

予は長くいようとした。しかし案外に早く身体も洗わさってしまう。

どうしよう! あがろうか? それとももう少し入っていようか? 上ったら

一体どこに行こう?

ガラス戸越しに番台の女が見える。それは去年この湯によく行った頃いた

娘、この間行った時はどうしたのか見えなかった、鼻の低いしかしながら、

血色のいい、男好きらしい丸顔の女であったが、この一年足らずの間に人が

変ったかと見えるくらい肥っている。娘盛りの火のような圧迫に身体がうずい

ているように見える・・・この女の肉体の変化は予をしていろいろの空想を起

さしめた。

出ようか出まいかと考えていると・・・死のうか死ぬまいかという問題が、出

ようか出まいかの問題に移って、ここに予の心理的状態が変化した。水を

かぶって上った時、予の心はよほど軽かった。そして体重を計ると十二貫

二百匁あった。先日より四百匁増えている。

煙草に火をつけて湯屋を出ると、湯上りの肌に空気が心地よく触る。書く

のだ! という気が起った。そして松屋へ行って原稿紙を買った。

部屋へ帰って間もなく宮崎君の手紙が着いた。
予は・・・! 宮崎君は、六月になったら予の家族を東京によこしてくれる

という。旅費も何も心配しなくてもいいという・・・

今日予は全く自分の気分を明るくしようしようということばかりに努めて日

を送ったようなものだ。頭が少し痛くってややもすると世界が暗くなるような

気がした。

社から帰って来て飯を食っていると金田一君が来た。やはり勉強したく

ない晩だという。
「今夜だけ遊ぼう!」
そして二人は八時頃家を出て、どこへ行こうとも言わずに浅草へ行った。

電気館の活動写真を見たが興がないので間もなく出て、そして塔下苑を

歩いた。なぜか美しい女が沢山眼についた。とある所へ引っ張り込まれ

たが、そこからはすぐに逃げた。そしてまた別の所へ入ると、「ゼスチュア」

に富んだ女がしきりに何か奢ってくれと言う。「弥助」を食った。

「新松緑!」それはいつか北原と入って酒を飲んだ所だ。二人は十時半

頃にそこへ入った。たま子という女は予の顔に見覚えがあると言った。

美しくて、そして品のある(言葉も)女だ。その女がしきりにその境遇に

ついての不平と女将おかみのひどいことと、自分の身の上とを語った。

予は壁に掛けてある三味線の糸を爪ではじき、果てはそれを取りおろし

ておどけた真似をした。なぜそんな真似をしたか? 予は浮かれていたのか?

否! 予は何ということもなく我が身の置き所が世界中になくなった

ような気持ちに襲われていた。「頭が痛いから今夜だけ遊ぼう!」それは

ウソに違いない。そんなら何を予は求めていたろう? 女の肉か? 酒か?

恐らくそうではない! そんなら何か? 自分にもわからぬ!

自意識は予の心を深い深いところへ連れて行く。予はその恐ろしい深み

へ沈んで行きたくなかった。ウチへは帰りたくない。何かいやなことが予を

待ってるようだ。そして本郷がバカに遠い所のようで、帰って行くのがおっくう

だ。そんならどうする? どうもしようがない。身の置き所のないという感じは、

予をしていたずらにバカな真似をせしめた。

「わたし、来月の五日にここを出ますわ、」とたま子が悲しそうな顔をして言った。
「出るさ! 出ようと思ったらすぐ出るに限る。」
「でも借金がありますもの。」
「いくら?」
「入るとき四十円でしたが、それがあなた、段々積もって百円にもなってるんで

ございますわ。着物だって一枚もこしらえはしないんですけれど・・・」
予はもう堪えられなくなるような気がした。泣くか、冗談を言うか、外に仕方が

ないような気持ちだ。しかし予はその時冗談も言えなかった。無論泣けなかった。

帳場ではたまちゃんの悪口を言ってる女将の声。そとには下卑た浪花節と

ひょうきんなひやかし客の声と、空虚なところから出るような女芸人の歌の節!
「浮世小路! ね!」と予は金田一君に言った。
酒を命じた。そして予は三杯グイグイ続けざまに飲んだ。酔いは忽ち発した。

予の心は暗い淵へ落ちて行くまいとして病める鳥の羽ばたきするようにもがい

ていた。

イヤな女将が来た。予は二円出した。そして隣室に行っておえんという女と

五分間ばかり寝た。たまちゃんが迎えに来て先の部屋に行った時は、金田一君

は横になっていた。予はものを言いたくないような気持ちだった。・・・とうとう淵

へ落ちたというような・・・

出た。電車は車坂迄しかなかった。二人は池之端から歩いて帰った。予は友

によりかかりながら言い難き悲しみの道を歩くような気持ち。酔ってもいた。
「酒を飲んで泣く人がある。僕は今夜その気持ちが分ったような気持ちがする。」
「ああ!」
「家へ行ったら僕を抱いて寝てくれませんか?」
二人は医科大学の横の暗闇を「青い顔」の話をしながら歩いた。
帰って来て門を叩くとき、予は自分の胸を叩いてイヤな音を聞くような気がした。

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久々に長めの日記。

それにしても1日でこれだけ感情が起伏するというのはすごいと思いますね。

・目を覚ます。ジメジメした湿った感じ。

・並木君から時計を返してほしいというハガキが届く。質に入れてしまっている。

死にたくなる。

・風呂へ行く。番台の女を見て変な気持ちになる。

・風呂に入っているうちに気分がよくなる。小説を書く意欲が戻る。

・出社する。

・帰ってきたら金田一君が遊びたいというので一緒に浅草へ行く。

・風俗っぽいところに入り、女から借金話を聞かされて、また気持ちが重くなる。

・酒を飲んで女を抱く。終わった後に同じように寝てる金田一君を見て、「堕ちた」

と感じる。

・金田一君に「抱いて寝てほしい」とせがむ。

ほんとジェットコースター。しかも質に時計を入れている男のすることでは断じて

ない。。。この晩だけで啄木は今でいう数万円を使ってるわけですが、もちろん

その金があれば質から時計を戻せたはず。。。まあもう売れてしまっていたら、

返せないわけですが。。。

とはいえ、おそらくこれだけ壊れてるからこそ、一杯短歌も小説も書けたと思う

のですよね。僕も大学の頃はかなり壊れてたので、たくさん物が書けました。

今は、あの当時とは別人と思えるくらい真面目。でも不思議と書ける。

まあ、退廃的な事も物書きには大事。ただ、ポジティブ感情は退廃を補える

みたいだし、ポジティブ感情+退廃がもし混じったら凄いことになるのか?

と思ったりもしましたw

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