今日からKindle Unlimitedを読み尽くす!をスタートします。
今年から1年365冊を読むことに決めたので、毎日書けるとは思います。
基本的には感想文を書きたいと思うのですが、ローマ字日記はあまりに読みづらいので日本語に書き換えてみようと思っています。
啄木の日記は1909年4月7日~17日の11日間。
11日シリーズで毎日1日分を掲載していきたいと思います。
約110年前の日本、東京を知るいい機会になりそうです。
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4月7日
本郷区森川町1番地
新坂359号
外塀館別荘にて。
晴れた空に凄まじい音を立てて、激しい西風が吹き荒れた。
三階の窓という窓は耐え間もなくガタガタ鳴る、
その隙間からは、遥か下から立ち上った砂埃がさらさらと吹き込む。
そのくせ空に散らばった白い雲はちっとも動かぬ。
午後になって風は揚々落ち着いた。
春らしい日影が窓の摺りガラスを暖かに染めて、風さえなくば
汗でも流れそうな日であった。
いつも来る貸本屋の親父、掌で鼻を擦り上げながら、
”ひどく吹きますな”と言って入ってきた。
”ですが今日中にゃ東京中の桜が残らず咲きますぜ。
風があったって、あなた、この天気でございますもの”
”とうとう春になっちゃったね!”と余は言った。
無論この感慨は親父にわかりっこはない。
”えー!えー!”と親父は答えた。
”春はあなた、私どもには禁物でございますね。
貸本は、もー、からだめでがす。
本なんか読むよりゃまた遊んで歩いた方がよーがすから、
無理もないんですが、読んでくださる方も自然と
こう長くばかりなりますんでね。”
昨日社から前借した金の残り、5円紙幣が一枚財布の中に
ある。午前中はそればっかり気になって、しょうがなかった。
この気持ちは、平生金のある人が急に持たなくなった
時と同じような気がかりかもしれぬ。
どちらもおかしいことだ、同じようにおかしいには
違いないが、その幸福考は大した違いがある。
証拠となしに、ローマ字の表などを使ってみた。
表の中から、時々津軽の海の彼方にいる母や妻のことが
浮かんで余の心をかすめた。
”春が来た、四月になった。春!春!花も咲く!
東京へ来てもう1年だ!・・・が、余はまだ余の家族を
呼び寄せて養う準備ができぬ!”
近頃、日に何回と泣く、余の心の中をあちらへ行き、
こちらへ行きしてる、問題はこれだ・・・
そんなら何故この日記をローマ字で書くことにしたか?
何故だ?余は妻を愛してる。愛してるからこそこの
日記を読ませたくないのだ。しかしこれは嘘だ!
愛してるのも事実、読ませたくないのも事実だが、
この二つは必ずしも関係していない。
そんなら余は弱者か?否、つまりこれは夫婦関係という
間違った制度があるために起こるのだ。夫婦!
何というバカな制度だろう!そんならどうすればよいか?
悲しいことだ!
札幌の橘千恵子さんから、病気が治って先月26日に
退院したという葉書が来た。
今日は隣の部屋へ来ている京都大学のテニスの
選手らの最後の決戦日だ。みんな勇ましくて出ていった。
昼飯を食っていつもの如く電車で社に出た。
出て、広い編集局の片隅でおじいさん達と一緒に校正を
やって、夕方5時半頃、第一版が校了にいなると帰る。
これが余の生活のための日課だ。
今日、おじいさん達は心中の話をした。なんという
鋭いアイロニーだろう!また、足が冷えて困る話をした。
”石川君は、年寄共が何を言うやらと思うでしょうね”
と、卑しい助平らしい顔の木村じいさんが言った。
”ははは・・・”
と余は笑った。これもまた立派なアイロニーだ!
帰りに、少し買い物をするため、本郷の通りを歩いた。
大学構内の桜は今日一日に半分ほど開いてしまった。
世の中はもうすっかり春だ。行き来の人の群がった
巷の足音は何とはなく心を浮き立たせる。
どこから急に出てきたかと怪しまれるばかり、
美しい着物を着た美しい人がぞろぞろと行く。
春だ!そう余は思った。そして妻の事、
可愛いそして呼ばなかった、否、呼びかねた。
ああ!余の文学は余の敵だ、そして余の哲学は
余の自ら嘲る論理に過ぎぬ!余の欲するものは
沢山あるようだ。しかし実際はほんの少しでは
あるまいか?金だ!
隣室の選手どもはとうとう東京方に負けたらしい。
8時頃、金田一君と共に通りに新しく建った活動写真
を見に行った。説明をする男はいずれもまずい。
そのうちに一人、シモドマイという中学時代の
知人に似た男があって、聴くに堪えないような
洒落を言っては観客を笑わしているのがあった。
余はその男を見ながら、中学一年の時机を並べた
事のある、そしてその後余らの知らぬ社会の
底を潜って歩いたらしい宮永さくち君の事を
思い出していた。宮永がある活動写真の説明士
になったというようなうわさを聞いていたので。
10時過ぎ、帰ってくると、隣室は大騒ぎだ。
慰労会に行って酔っぱらってきた選手の一人が、
電灯を叩き壊し、障子のサンを折って暴れている。
その連中の一人なる坂牛君に部屋の入口で会った。
これは余と高等小学校の時の同級生で、今は
京都大学の理工科の生徒、8年も会わなかった
旧友だ。金田一君と3人余の部屋へ入って1時頃まで
も子供らしい話をして、キャキャと騒いだ。
そのうちに隣室の騒ぎは鎮まった。春の夜ー
一日の天気に万灯の花の開いた日の夜は更けた。
寝静まった都の中に一人目覚めて、穏やかな
春の余の息を数えていると、三畳半の狭い部屋の中の
余の生活は。いかにも味気なくつまらなく
感じられる。この狭い部屋の中に、何とも知れぬ
疲れにただ一人眠っている姿はどんなであろう。
人間の最後の発見は、人間それ自身がちっとも
偉くなかったという事だ!
余は、このけだるい不安と知って興味を求めようと
する浅はかな望みを抱いて、この狭い部屋に随分
長い事、200日余りも過ごしてきた。いつになれば・・・
否!
枕の上で”ツルゲネフ短編集”を読む。
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感想:
初日から啄木ワールド全開ですね。日記から次のことが読み取れます。
・東京に単身赴任している
・三畳一間に住んでいる
・大学で出版の仕事をしている
・貸本の読書が趣味らしい
・5円前借している(現在だと5~10万円)
・夫婦という制度に納得がいかない
・妻は愛しているが・・・
という感じですね。
啄木の言いたいことは理解できるのですが、「だったら結婚しなけりゃいいじゃん」で終了だと思うんですね。結婚することで自分の血を残すことが社会的に認められるようになる。一方、一夫一妻制度の日本では啄木の志向した夫婦生活は無理(だから結果として大量に女を買う、という行為に啄木は出る)。たくさんの女性と関係を持ちたいなら、その分子孫を残したり、一人の人と生涯を共にするといった相反する幸せを放棄すればいいだけだと思うんです。
啄木は両方求めたから、結局自己矛盾に耐えられなかった。
一握の砂にある「はたらけど はたらけど猶(なお)わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」という有名な詩は隠れている言葉を補う必要があります。
「働いても働いても(余は放蕩生活なので)稼ぎが生活に追いつかない。(余はもっと価値があって稼げる男なのに!)じっと手を見る。」
なんですね。彼の当時の学歴を考慮すれば、普通に働き普通に生活していれば苦しいはずがありません。酒・女遊びがひどく、仕事もフリーターで小説・詩集でがっぽり稼いでやる!と夢見ていた。彼を評価している人は当時からすでに結構いたけど、社会でブームになるほどではなかったので、結局放蕩生活に稼ぎが追い付かず、病に伏して26歳で亡くなった。
もし誰一人彼を評価しておらず、死後に評価されたのだとしたら、確かに不遇だと思います。でも、彼は妻が彼の能力を高く評価していたし(これは本当に素晴らしいことだと思います)、同期に金田一京助がいて、彼は同期にも関わらず啄木に資金援助をしていた。金田一さんもかなり評価していたということですよね。新聞社の編集長を務めたり、「明星」で詩集が連載されていたり。十分な評価だと思います。お金も倹約生活なら十分すぎるほどあったはず。でも、毎日女性を買っていたら。今だって月50万は簡単に消えます。そんな放蕩ぶりで「はたらけど・・・」と言われてもって感じですねw今であれば「クレカで欲しいものは何でもゲット!リボ払いで火の車。はたらけどはたらけど・・・じっと手を見る」という状態です。。。
もし今啄木がいたとして、僕の友人だったとしたら。
「一番大事なのは自分の評価でしょ。俺すげえ、って思えたらそれでいいじゃん。俺ほど俺の真実を知ってる人っていないでしょ?その俺が俺すげえって言えることってすごいことだよ。人の評価は俺自身が変化すれば変化するだろうけど、俺は何も変わらなくても、時代が変わる、評価する人の状態が変わる、それだけで評価は一変しうる。特に時代というのは残酷で、ブームになれば異常に評価されるし、過ぎれば一瞬で「過去の人」扱いされる。だからこそ、大切な評価者は「自分」」
と、彼が考えを改めるまでこつこつと話し続けるでしょうね。
明日以降が楽しみです!